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会長の読書

天下大乱 (伊東潤著、朝日新聞出版)

 太閤秀吉が亡くなってから関ヶ原の合戦が始まり、終結するまでの物語である。この時代の歴史小説は司馬遼太郎を初め多くの作家によって数多く書かれているが、本書は徹底的に資料を調べて、最新調査結果も盛り込んだ集大成のような作品である。
 本書を読み始めたところ、偶然にも、伊東潤がラジオで「太閤ヶ平(たいこうがはら)」について語っているのを聴いた。「太閤ヶ平」は秀吉が鳥取城を攻めたときのである。かなりマニアックな遺構であるが、伊藤潤はそこを訪ねる道順について語っていた。
 文中に(異説あり)と書かれているところがある。多分、歴史学者の中に異説を唱えている人がいるということを注書きしているわけである。それだけ多くの資料を読み込んでいるものと思われる。調べることにかなりこだわっているようである。
 さて、豊臣秀頼が亡くなってから五大老五奉行による政(まつりごと)が行われている中で、会津の上杉景勝が領地の城を増築していることなどを問題として、これは秀頼様に対する不忠であると糾弾し、徳川家康は諸大名を率いて会津征伐に向かう。多くの家康派の武将が大阪・京都を留守にしたため、そのすきに石田三成が挙兵し、反家康の旗を翻し始めた。この知らせを受けて、家康は諸将を集めて、評定を開く。世にいう小山評定である。この席で、豊臣恩顧の武将、山内一豊が我が掛川城を存分にお使いくださいと述べたと言われている。これがきっかけになって、会津征伐を中断し、三成と対決するために引き返すことに衆議一決する。この逸話は司馬遼太郎の小説にも描かれているのだが、本書には描かれていない。いかにも芝居がかったこのエピソードは、誰かの創作である可能性があると、伊東は採用しなかったようだ。
 もう一つ、会津征伐に出発する少し前の話だが、三成を嫌っていた加藤清正、福島正則、黒田長政、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明の七将が三成を襲撃しようという事件があった。そのときに、三成は家康の屋敷に逃げ込んだとする小説が多いが、本書では俗説であるとしている。
 さらに、近年NHKが飛行機からレーザーを照射して地形を調べる調査で関ヶ原の西の山に大きな城跡があることを発見した。その規模が大きいことから、石田三成はこの城に豊臣秀頼に入城してもらい、千成瓢箪の馬印を翻す計画であったと推察されるようになっている。この大きな城跡があったということは司馬遼太郎の時代には分かっていなかったことであるが、本書には織り込まれている。
 関ヶ原についての小説を読んだことがある人も、信頼感をもってじっくり読める一冊である。
 伊東潤の力量を見込んで、関ヶ原の後の大坂冬の陣と夏の陣についても書いてもらいたいものである。

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