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会長の読書

仏具とノーベル賞 京都・島津製作所創業伝 (鵜飼秀徳著、朝日新聞出版)

 島津製作所といえば、2002年に田中耕一氏がノーベル賞を受賞して一躍有名になった。島津製作所のルーツは創業者・島津源蔵の生家が京都の仏具製造業だったことから始まったということである。
 島津源蔵は1839年生まれ。島津家はお寺の宝珠や鐘などを作っていたが、明治元年(1868年)に始まった廃仏毀釈によって仏像・仏具の打ち壊しや投棄が行われ、仏具の需要がなくなり、窮地に陥る。
 当時の京都は、禁門の変に敗れた長州藩が『あろうことか藩邸を焼き払って逃げてしまった』ため、京都の中心部に大きな焼け野原が広がっていた。さらに、天皇が東京に奠てん都としてしまったため、京都は衰退に向かい始めていた(『 』内は原文のまま、京都の僧侶でもある著者・鵜飼氏の心情からきている表現であろうと思われる)。
 そのような、荒れ果ててしまった京都を復興しようと、さまざまな勧業振興策が進められた。まず、琵琶湖から水路を引き水力発電所を建設して、街灯を灯ともし、路面電車を走らせた。当時、東京ではガス灯が街路を照らしていたが、京都ではガス灯ではなく電灯が先に設置されていたということである。多くの振興策の中で、舎せい密み局が設けられた。舎密局とは、化学研究所のようなもので、化学の実験のための機器が多数使われていた。その機器の修理や製作を島津源蔵が引き受けることになったのが島津製作所の始まりということである。
 幸いなことに、息子の梅次郎が優れた子で、10歳にしてフランスの科学の本を読むほどに育っていた。
 日露戦争が始まると、日本海軍が無線通信のための船舶用の蓄電池を早急に製造するように求めてきた。源蔵と梅次郎は、何とか工夫して必要な数を間に合わせ、日本海軍は軍艦との無線通信ができるようになった。日露戦争の大勝利の陰に、島津製作所の蓄電池があったということを本書で知った。
 後に梅次郎は2代目源蔵を襲名し島津製作所の隆盛をもたらすことになるのだが、島津製作所の足跡を見ると、初代源蔵と2代目源蔵の進取の気性が組織風土として引き継がれていることが分かる。そして、ノーベル賞を受賞するに至ったものと理解できた。
 京都にはユニークな会社が多い。村田製作所、堀場製作所、京セラ、オムロン、任天堂など、たくさんある。その背景には、明治維新後の危機感と元々あった工芸の技術の蓄積があったのであろう。
 ところで、本書とは関係ないが、清水寺近くに日本の工芸の逸品を集めた「清水三年坂美術館」がある。これは、村田製作所の村田理如(まさゆき)氏が海外に流出していた日本の優れた工芸品を買い戻して収集したものである。京都で発展した会社は京都への思い入れが強いことがうかがえる。

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